神葬祭の発源
神道における葬儀形態「神葬祭」が明らかになったのは、江戸時代中期頃の国学者・儒学者達の研究によるものです。江戸時代は徳川幕府の宗教政策(寺社制度など)により、徳川光圀(黄門さま)でさえ神葬祭を望んだにもかかわらず実現には至りませんでした。
しかし、寺社制度などに基づく仏教式葬祭に対し、日本古来の信仰に基づいた葬祭を求める運動(神葬祭運動)が起こりその結果、江戸時代中期に神職当人と嫡子に限って神葬祭が許されました。明治時代になると、一般庶民にも神葬祭が許され神葬祭用の公営墓地が開設されました。特に水戸斉昭公のときに「喪祭式」ができました。
神葬祭のこころ
神道は地域ごとの生活を基盤とする為、ひとくちに神葬祭といっても当然のことながら地域差が伺われます。しかしながら、いずれも祖霊に対する信仰(祖先崇拝)であることは共通しています。神道では来世のことを幽世(かくりよ)といいますが、現世と隔絶された世界ではなく、連続もしくは重ねあった世界と考えられています。この世において祖先と共に生きることで、系譜の連続性をあらためて確認することができるのです。
神葬祭は現在、社家・神道の家に生まれた人、改宗した人、分家などで初めて葬儀を出す人達の間で行われています。神道思想の中核には日本固有の信仰があります。けれどもその周りを形作っている思想は様々で、習慣・習俗・伝統や他の宗教の思想が複雑に入り混ざり、神道=固有信仰と断言できない点もあります。
しかし、古代からの固有信仰に基づく神道式の葬儀は連綿と続けられてきました。葬儀は人生最後の重要な儀礼です。人の悲しみ、その人の徳を偲び、御霊(みたま)が安らかであるようにと誠意をもって行う。理論や思想を振りかざすよりも、人を思う心それを表す行動が大切なのです。
吉田神社神葬祭
・ 通夜祭(葬場祭の前夜に行い、生前同様に故人に奉仕する儀。ここにおいて遷霊祭を併せて執り行う。)
・ 火葬祭(遺体を火葬に附する儀)
・ 葬場祭(故人と最後の別れを行う儀。告別式)
・ 毎10日祭(朝夕の日供を10日毎鄭重に行う祭り)
・ 埋葬祭(遺骨を墓所に納める儀)
・ 50日祭(忌明けにあたり行う清めの儀)
・ 1年祭(1年後に行う祭り)
・ 以後 3年・5年・10年・20年・30年・50年と続き、以後祖霊祭となる。
神葬祭の特徴
神葬祭における独特の儀式であり、欠くべからざる重要な祭儀に遷霊祭があります。厳粛をきわめる儀式で、霊璽(れいじ)に故人の御霊をお遷しするものです。この遷霊の儀によって御霊の宿った霊璽を故人の御霊代として祀ります。
霊璽の表には霊号(故人の神霊としての呼び名)が記されますが、この霊号も時代・地域によって異なります。
不幸がでた時、その日のうちに神棚には白い紙を貼り、この間は拝礼をしてはいけないとされています。そしてこの紙は50日祭の後、はずされます。50日祭は今日で喪が明けることを知らせる忌明けの祭りです。(1年をあてる所もあります)この他、神葬祭では拝礼の作法も普段とは異なり、音を出さずに手を叩く忍手(しのびて)をもちいます。
霊祭
神葬祭後儀として「霊祭」があります。神葬祭が終わると節目ごとに御霊の遺徳を偲び、1年祭に始まり、3年・5年・10年・20年・30年・50年と続き、以後祖霊祭となります。これらの年以外でも、毎年の命日の儀礼が行われます。1年祭までは、神葬祭の延長と考えられ、以後故人の御霊は祖霊として祀られます。
1年祭がひとつの区切りとされたのは、御霊は帰幽のあと、一定の期間は荒々しい状態(荒魂)で祖霊として御霊が和み(和魂)鎮まる期間を、生活の基本単位の1年と定めたことによるものと思われます。この他に、春季祖霊祭(春分の日)、秋季祖霊祭(秋分の日)、正辰祭(祥月命日)、毎月の1日・15日に月次祭(つきなみさい)、朝夕に日供をおこないます。このように霊祭を続けていくことで、御霊は霊威を増し、神霊へと高まり家の守護神として永く子孫を守護するものと考えられています。